対談形式で、池上彰と佐藤優がどんな情報収集をしているかを書いた本です。
人気の本で、一年くらい図書館で待ちました。
面白かったのが、基礎を学びなおすのにスタディサプリをお勧めしていたところです。
受験勉強も教養の一つだものねとふむふむ読みました。
近代文語文問題演習も解いてみようと思いました。
あとは新聞が侮れないらしく、かなりのページ数を割いていたのが印象的でした。
新聞読んでみようかなと思い始めました。
2018年05月18日
2018年05月17日
さて、私はどうしたい?
私はモノじゃない、だからそこには意思がある。
ところが困ったことに、自分の意思がわからなくなる時がある。
日常生活では困ることはないのです、大事な局面でふっと自分の気持ちより
周りの人の気持ちを優先させてしまう癖があります。
厄介なことに無意識で。
ACの分類でいうと、ケアテイカーなんだろうと思います。
だれかの世話を焼くことで自分という形を保っている。
だから、その世話を焼かなくなることで自分の形が不安定になることが怖い。
今私はどうしたいかを自分で決めなきゃいけない時にいます。
誰かののぞむものは重要だけど、脇に置いておく必要があります。
わかってる、ので時間をください。
ところが困ったことに、自分の意思がわからなくなる時がある。
日常生活では困ることはないのです、大事な局面でふっと自分の気持ちより
周りの人の気持ちを優先させてしまう癖があります。
厄介なことに無意識で。
ACの分類でいうと、ケアテイカーなんだろうと思います。
だれかの世話を焼くことで自分という形を保っている。
だから、その世話を焼かなくなることで自分の形が不安定になることが怖い。
今私はどうしたいかを自分で決めなきゃいけない時にいます。
誰かののぞむものは重要だけど、脇に置いておく必要があります。
わかってる、ので時間をください。
2018年05月09日
回復とはなにか
今日カウンセリングを受けてきました。
そこで話題に上がったのが、私は確実にトラウマから回復しているということ。
正直言ってあんまりしっくり来てないんですが、私の言動からは
そういうことがうかがえるらしいです。
PTSDになると3つの信頼(自分への信頼、対人関係の信頼、世界への信頼)
が失われるそうで、私は自分への信頼を取り戻しつつあるのではないかと
いうのがカウンセラーの見解でした。
何故そういう話になったかというと、今の私の課題(もう南北戦争かってくらい泥沼で
面倒なことが起きてるんです)について、「私自身が」いつか解決できる、思っていて、
かつ「この問題が解決したら私はまた精神的成長ができるはずだ」と信じ込んでいると
いう事実が判明したからです。
いつか解決するだろうという未来への展望を持てていること、
精神的な成長をすると信じられることは自分自身への信頼ではないかと
カウンセラーは言いました。
信頼?
そんなものは自分にはないです。
ただ、こういうことがあったらこういう対応ができるだろうというリストが
心の中にあるだけです。
おそらくそんなリストがあるということ自体が、自分への信頼だと言われるかも
しれません。でも違うんです、それは単なる文字列情報に過ぎません。
その情報を使うのは私ではあるけれども、そこに私の主体はないです。
うーん、よく伝えられる気がしないな。
つまるところ、私は自分が回復しつつあることを認めるのが嫌なのかもしれません。
長いことPTSDに苦しめられた自分が自分だと思っていたので。
今だってフラッシュバックは毎日のように起こる、それに耐える自分がいる。
ただしその自分は数年前より強くなっている、その事実を認めるのが怖いのです。
なぜ怖いのか、さっきも書いた通り、自分自身の過去に苦しめられている自分が
本来の自分だと思っているからです。
昔、EMDRというトラウマ治療の際に叫んで、未だに覚えていることがあります。
「トラウマによる苦痛がなくなったら自分は自分でなくなってしまう!」
おかしいですよね、トラウマに苦しめられて、困っているから高いお金を払って
時間も労力もかけてEMDRを始めたのに、苦しみの根源を癒そうとすると自分から
その手を振り払ってしまうのですから。
わかってるんです。
トラウマによる苦痛がなくなればもっと生きやすくなること、
トラウマ記憶を治療しても私は私のままでいられること、
多分ですけど、トラウマに苦しめられない自分はもっと強く太くなれること。
PTSDに囚われなくても、私が私らしく在れるものはあるんですけど、
なによりも自分を自分たらしめていると(感じている)のはトラウマ記憶なもので
トラウマ記憶がイコール自分になってる面が否定できないんですよね。
なによりも変化が怖い。
その変化が自分にとって良いものであったとしても、精神的な変化は
目に見えないから、自分がどうなるのか先の見通しが立たないから怖い。
要は自分の変化を認めるのが怖いのです。
変化したことを認めたら何かが変わってしまう気がして、その何かはおそらく
私が私でなくなってしまうような何かなんですけど、うまく言語化はできません。
そこで話題に上がったのが、私は確実にトラウマから回復しているということ。
正直言ってあんまりしっくり来てないんですが、私の言動からは
そういうことがうかがえるらしいです。
PTSDになると3つの信頼(自分への信頼、対人関係の信頼、世界への信頼)
が失われるそうで、私は自分への信頼を取り戻しつつあるのではないかと
いうのがカウンセラーの見解でした。
何故そういう話になったかというと、今の私の課題(もう南北戦争かってくらい泥沼で
面倒なことが起きてるんです)について、「私自身が」いつか解決できる、思っていて、
かつ「この問題が解決したら私はまた精神的成長ができるはずだ」と信じ込んでいると
いう事実が判明したからです。
いつか解決するだろうという未来への展望を持てていること、
精神的な成長をすると信じられることは自分自身への信頼ではないかと
カウンセラーは言いました。
信頼?
そんなものは自分にはないです。
ただ、こういうことがあったらこういう対応ができるだろうというリストが
心の中にあるだけです。
おそらくそんなリストがあるということ自体が、自分への信頼だと言われるかも
しれません。でも違うんです、それは単なる文字列情報に過ぎません。
その情報を使うのは私ではあるけれども、そこに私の主体はないです。
うーん、よく伝えられる気がしないな。
つまるところ、私は自分が回復しつつあることを認めるのが嫌なのかもしれません。
長いことPTSDに苦しめられた自分が自分だと思っていたので。
今だってフラッシュバックは毎日のように起こる、それに耐える自分がいる。
ただしその自分は数年前より強くなっている、その事実を認めるのが怖いのです。
なぜ怖いのか、さっきも書いた通り、自分自身の過去に苦しめられている自分が
本来の自分だと思っているからです。
昔、EMDRというトラウマ治療の際に叫んで、未だに覚えていることがあります。
「トラウマによる苦痛がなくなったら自分は自分でなくなってしまう!」
おかしいですよね、トラウマに苦しめられて、困っているから高いお金を払って
時間も労力もかけてEMDRを始めたのに、苦しみの根源を癒そうとすると自分から
その手を振り払ってしまうのですから。
わかってるんです。
トラウマによる苦痛がなくなればもっと生きやすくなること、
トラウマ記憶を治療しても私は私のままでいられること、
多分ですけど、トラウマに苦しめられない自分はもっと強く太くなれること。
PTSDに囚われなくても、私が私らしく在れるものはあるんですけど、
なによりも自分を自分たらしめていると(感じている)のはトラウマ記憶なもので
トラウマ記憶がイコール自分になってる面が否定できないんですよね。
なによりも変化が怖い。
その変化が自分にとって良いものであったとしても、精神的な変化は
目に見えないから、自分がどうなるのか先の見通しが立たないから怖い。
要は自分の変化を認めるのが怖いのです。
変化したことを認めたら何かが変わってしまう気がして、その何かはおそらく
私が私でなくなってしまうような何かなんですけど、うまく言語化はできません。