2017年07月02日

亡くなった父に手紙を書いた

虐待した親への手紙を書くという機会があったにで、父に宛てて手紙を書いてみました。
楽しい話じゃないですが、ブログのネタにはぴったりかなと思いまして公開します。
公開するにあたって若干のフェイクは入れてあります。


父へ
まずは、私にコメニウスの世界図絵を教えてくれてありがとう。
読書が好きになったことはあなたの残した数少ない遺産の一つです。
そしてあなたが小学5年生だった私に灰皿を投げたことを忘れているという事実を皮肉を込めておめでとうと言いたいです。
幸せに死ぬことが出来て良かったですね。
私はあなたのおかげで酷い目に遭いました。

あの日、母と姉とで映画「AI」を見に行った日の夕ご飯の時、私は何かの拍子であなたの機嫌を損ねてしまいました。
そして、パソコンの前に座っていた私はあなたに灰皿を投げられました。
(以下灰皿事件と略しますね)一体私の何が悪くて灰皿を投げられるほど父の機嫌を損ねてしまったのか、それは何度思い返そうとしても思い出せませんし、あなたが亡くなっている以上それを知ることは不可能に近いです。

投げられた灰皿は不幸にも私に当たりませんでした。
あの時私に当たっていれば、医者にかかっていれば、虐待として通告されてあなた方父母から離れられたかもしれません。
でも運悪く灰皿は私の後ろにあったパソコンのモニターに当たりました。
翌日パソコンを起動させた時のねじ曲がった画面を私は今もありありと思い出すことが出来ます。
他にも、ただ「この部屋は寒いね」と言っただけで不機嫌になってしまったり、「テレビの音量を下げてもいい?」と訊いただけで怒り出して家を出ていったあなたは立派な精神的虐待をしてきました。

もし灰皿事件が、虐待として児童相談所に通告され、あなた方から離れることが出来たら私は今頃もう少しまともに働けていたかもしれません。

あの灰皿事件で父親を慕う小さい女の子は実質的に殺されてしまい、残ったのは権威のある男性に怯える発達障害の子供だけでした。
今の現代社会で、たいがいの会社の「上司」と言えば年上で権威のある男性がほとんどですよね。
そういう属性の人が怖くなってしまったら、普通の会社で働くことはかなり難しくなります。
それが特に作業・動作面で障害のある発達障害者であったら、なおさら働くことに困難が生じます。

ここで私の職歴の話をしましょう。
大学を卒業して新卒で入った会社では、まだ私の発達障害は判明していませんでした。ただ、大事な場面で遅刻をしてしまう役立たずの法人営業担当でした。
この会社では有り難いことに上司が定年間近で、気性も穏やかでポンコツの私を優しく見守って育ててくれました。
ところが、その上司が定年退職をしてしまった後、新しく上司となった人は前の上司より少し厳しい人でした。
その上司に代わってから私は悪夢を見ることが増え、「ごめんないさい!」という自分の寝言で目覚めることが頻繁に発生しました。
以前から事務職に興味を持っていたこともあり、私はその会社を退職し、事務職に転向をしました。

事務職として入った会社でも、やはり上司は男性でした。面接の時から少し目が鋭い印象を持っていましたが、その上司がどうしても私の父とかぶって見えるようになっていきました。
というのも、ワーキングメモリーが弱くマルチタスクが苦手である私には、事務職が向いていなかったようで、何かと失敗する私に対してその上司がパワーハラスメントを行なってくるようになったからです。
そしてある日、突然会社に行けなくなった私は、鬱病と発達障害と診断され、そのまま会社を退職しました。

鬱も回復してきた頃、職業訓練校を経て私はパソコンのヘルプデスクのテレフォンオペレーターとして働き始めました。
そこでは、上司は男性でしたが年齢若かったこと、また言語能力が高いという私の発達特性を生かして順調に働くことが出来ていました。
ところが、この年父親であるあなたは突然がんで亡くなってしまいましたね。
それがきっかけで鬱が再発し、私は退職をしました。
今はやっと精神障害者を対象としたB型作業所で少しずつ働き始めたところです。

そこでも過去に受けた精神的虐待やパワーハラスメントのフラッシュバックに苦しんでいます。

あなたが末期のガンであることを最後まで家族に隠して、もう限界と言うところになってやっと連絡を寄越してきたことを、私は未だに腹立たしく思っています。
どうせなら最後までちゃんと隠し通して死んでいって欲しかったというのが私の本音です。
自分のがんが発覚した時点で家族に相談報告をしなかったという点で、あなたは家族に看取られる必要はなかったと思います。

あなたがまだギリギリ生きていて、私がお見舞いに行った時、私はあなたに灰皿事件のことを覚えているかを尋ねました。
あなたは覚えていないと言いましたね。でも、ごめんなさいと言いました。
実はその謝罪も私の心にはあまり響きませんでした。
というのも、遡ること数年前に私はあなたに同じ質問をしていたからです。
その時の返事も「覚えていない、ごめんなさい」でした。
以前に同じ質問をされているにもかかわらず、あなたは覚えていない。
それはつまり、灰皿事件というのはあなたにとって本当に些末なことだったのだと私は理解しました。
そしてその瞬間、私は幻想の父親を父に求めていたことに気付いたのです。
それはちょうどミッキーマウスに中の人なんていないと信じていたのに、ある日ミッキーマウスの中から人が出てくるところを目撃してしまうようなものでした。
私の幻想はこういう形で崩れ去ったのです。

私がお見舞いに行った時、あなたはひげも髪もボサボサで、私には「知らないおじいちゃん」という印象しか受けませんでした。
だから、あなたの看取りについて興味がなかったのは、仕方のないことだったと思います。
私以外の家族はきちんとあなたを看取ったようですが、私にはもう「知らないおじいちゃん」の死でしかありませんでしたから。

あなたが亡くなった時点で、私はもう実家から離れて何年も経っていました。
だから、あなたが亡くなったことが会社を辞めなくてはいけないほどメンタルに影響するとは正直思っていませんでした。
それでも、会社帰りの電車の中で毎日泣いたり、立ちくらみがして一駅ごとに降りなければいけないほどつらい時期が続いて、私は退職を決めました。

正直に言うと、私はもうまともに働くことが出来ないと思います。
今現在私は、B型作業所に通っていますが、そこを安住の地として、デイケアを併用しながら生きていければいいかなと思います。
今後私がフラッシュバックに耐えながら、不器用なりにフルタイムで働くなんて今の私には到底無理だと思うからです。

あなたは長年に渡って私に精神的虐待をしてきました。
その分私のトラウマ記憶は根が深く、PTSDの治療(EMDR)を二年受けても、フラッシュバックはあまり快方に向かいませんでした。
発達障害によるトラウマ記憶だけならともかく、幼年期から長年受けてきたトラウマ的な経験をどうにかできるとは私は思っていません。

私はもっとあなたに愛されたかったし、優しく扱われたかったんです。
突然の不機嫌に振り回されて、周りの人の表情を伺うような生活はしたくなかった。
ねえ、返して下さいよ。私の幸せな幼年期や学童期や思春期はあなたに奪われたようなものなんですから。
私の経験がもっと幸せで優しくて甘いものが多かったら、学校でのいじめや会社でのパワーハラスメントにも耐えることが出来たかもしれないんですから。

そもそもパワーハラスメントを受けることさえなかったかもしれないと思うと、あなたには本当に腹が立ちます。
確かにあなたは、当時私が憧れていたキャンピングカーでの宿泊体験やチェコへの旅行など、なかなか経験し得ないことも与えてくれました。
それには感謝しています。
でもそれ以上にあなたの残した負債は私にとって大きなものなものなのです。
その負債を抱えながら私は生きていかなければなりません。
この苦痛をあなたは理解することができますか?

確かにあなたは何かしらの苦しみを抱えていたんでしょう、きっとお酒に逃げなければいけないほどの何かを。
でもそれをぶつける相手は私ではなく、医者やカウンセラー等の支援者であるべきでした。
不機嫌で私をコントロールしたあなたは本物の毒親です。
おめでとう、良かったですね。

そうそう、あなたを看取ってくれた優しい優しい家族とは絶遠しました。
私にとってあまりいい影響を与えてくれそうになかったからです。
私は私にとって居心地のいい人たちに囲まれて「今」「ここ」で幸せに生活しています。
さようなら、ありがとう。
そしていなくなってくれて本当にありがとう。
posted by はぴたん at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 毒親 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

毒親実家に行って疲れて帰ってきた

どうしてもハンコが必要な書類があって、そのハンコをもらうために実家に行った。
別に郵送でもよかったんだけど、実家から回収しておきたいものがいくつかあったので、
ついでに会いに行ってあげたという感じ。

私の目論見としては1時間で切り上げるつもりだったのだけど、近所に住んでる姉夫妻が
私が実家にいると知って襲来してきた。
母には実家に行く時間を前以て知らせておいたから、姉の襲撃は予想していた。
でもやっぱり疲れた。

昔書いた記事で、私の生物学上の父が亡くなった時の違和感について取り上げているんだけど
それに似た奇妙な感覚を味わってきた。

最近の子育て事情を知らないんだけれども、自分の子供ってさん付けで呼ぶのかな。
◎◎さんって。
なんか変だなと思った。
心の境界線がおかしい感じがした。
まだ生まれて何ヶ月の乳児だから、境界線なんてまだないんだけども。

あと姉が共依存っぽいなって感じがしたのが、何かエネルギーを注げるものに集中する感じ。
ずかずかと私のエリアに入ってきそうで嫌だった。

それから母親の態度。
いちいちこちらの態度を伺う感じがして、なんとなくこちらに罪悪感を抱かせる。
多分向こうは無意識的にやってるんだろうけど。
正月は帰らないからと宣言した時の悲しそうな顔、うんざりした。

もう何もかも嫌だった。
4時間くらいか、拘束されてしまった。
疲れたせいか帰る頃には私は変な躁状態になって、夜も寝付けずに今朝も5時ごろ起きてしまったり。
起きてそのまま裁縫を始めて12時間はひたすら裁断、ミシン、手縫い。
やっと昨日の感情を表現できるようになった。

昨日の私は頑張ったな。
ご褒美に大きな布を買ってぬいぐるみでも作りますかね。
部屋がボアの埃だらけになりそうだけど、別に構わない。
posted by はぴたん at 19:03| Comment(4) | TrackBack(0) | 毒親 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

父の死について2(家族への違和感)

生物学上の父親が亡くなった時の話、続きです。


父親が倒れた時、姉はすぐさま休職の手続きを取り、
入院先に行きました。何を思ったかは知りません。
すぐには休みを取れない母の代わりに一日中病院にいて、
暴れる父親をなだめたり、ケースワーカーに相談したりしていました。
控えめに言って、私は姉の行動する様を見て気持ち悪いと感じました。
都内の「家」にいる時に、あれだけ精神的な暴力を振るって、
1年近くがんを家族に黙っていた人に、なんでそれだけ経済的
物理的投資が出来るのかということです。

もちろん、家族が病気になった時に積極的に献身的に看病できる
ってすごく良いことですけど、それだけのことが出来るほど私は
父親のことを好く捉えられません。
思うに姉があんなに行動できたのは、看病することで強い
自己効力感を得られたからなんじゃないかと思っています。

それから姉と私とで父親との関係が全く異なることも否定できません。
私は比較的父親につらく当たられましたが、姉はそこまでひどい
体験をしていないのではないかと思います。
私が知らない範囲でつらい体験をしていることもあったでしょうけど、
つらい体験があってなおかつ父に優しく出来るとはすごいですね
としか思いません。

まあ、そんなこんなで姉は父が突然入院してから亡くなるまで、
母に代わりあれやこれやを取り仕切っていました。
母親が休みを取れるようになって、入院先に常駐できるように
なってからもずっと。

これは私の「こうあるべき」イメージです。
私の「家」での父との関係上、父の治療方針についての
主導権は姉ではなく母が持つべきだったんじゃないかと
思っています。
基本的には子供と配偶者では配偶者の方が優先されるべき
ではないかと思っているからです。
もちろんこれは一般に当てはめられることではなく、関係や状況に
よって変わります。

今回に関して言えば姉が色々なことをやってくれたことに感謝はします。
でも全てを決定できるほど姉と父は関係が深いわけではなかったように
思うのです。

これが私が家族に対する違和感の根元だと思います。
姉は母が分担する領域にまで土足で踏み込んでいたように感じる。
母が姉に委任するという話し合いを持っていたのかもしれません。
だとしたら、それは私にも話しておいて欲しい内容でした。
それがないまま「なあなあ」で姉が全てを決めて、母がそれを
黙ってみているという様子は気持ちのいいものではなかったです。
父親が入院して、姉が色々と世話を焼く間も、病状は順調に
悪くなっていきました。

父が最初に搬送されたのは急性期病院と言われる治療が
目的の病院でした。
最初から治療を希望していない父親は、違う緩和ケアの
できる病院に転院する必要がありました。
そのため救急病院から緩和ケア病棟に転院。
転院先でもしばらくは父は元気な様子でした。

私が一度お見舞いに行ったときはシリア情勢に
ついてだったでしょうかちょっとした話が出来るくらい。

母などは「本当はもっと長生きするのではないか」と思ったそうです。
それでも、ある日の夕方「危篤だからお見舞いに来い」という連絡が
姉から私にきました。
医師から「今日明日が山場だと言われた」というメールです。
「さすがにお見舞いに行かなくては」と思い会社を休みました。
その時は持ち直しましたが、その週に父親は亡くなりました。

当時、姉と母はほぼ常に病院で付き添っていましたが、私は
入院先が地方のこともあって、頻繁にはお見舞いに行きませんでした。
とうに配偶者や他の家族がいるのに、私が行ったところで何もならない。
そう考えていたからですが、今もそれで良かったと思っています。

入院当初に私が感じた「知らないおじいちゃんのようだ」という印象や、
その後の家族の反応に辟易してしまったからです。
家族の反応というのは、父が山場と言われた日の夜のことです。
夜中、意識がほとんど亡くなった状態の時、父親が母親の名前を
呼びました。

すると母は「ずっと一緒にいるからね」と感情的な反応をしたのでした。
そこに居合わせた私が感じたのは「意味が分からない」ということでした。
「ずっと一緒にいる」って言っても、直前の8年間はほぼ別居のような
状態だったじゃないですか。
それを今更取り乱して、この人達のことを私は理解できない。
そう感じました。

家族が苦しんでいる横でもっと私も苦しむことができたならば、
一般的な家族像に近づけるかもしれません。
ただ残念ながら私は色々な意味で「一般的」とは言えないタイプですし、
家族からされてきたことは虐待と言っても差し支えないことでした。
それらのことを総合的に考えて、私は父の死に当たって自分に
出来ることをしたと思っています。

私と違う感情を発露させた家族の気持ちは実際にそう感じられたもの
だったのでしょうし、私はそれを理解できないだけです。
それが家族の行動パターンであっても、自分には理解できないことが
あります。

こういう風に書くと、いわゆる一般的な人、健全な家族で育った人から
したら、「おかしいのはおまえだ」と言われてしまうかもしれません。
「こんなことを書くなんてひどい」と言われることもあるかな。
ここまで書いてきておいてなんですが、ブログで公開するとなると
ちょっと怖くなるチキンハートです。
尻切れトンボな感じがしますが、私の中で書きたい感情が
落ち着いたのでここまでで終わりにします。

・後日いただいたコメント
話が少し逸れてしまうかもしれないけど、はぴたんが気持ち悪いと感じた感覚を私は少し分かるような気がする、と思った。おかしいことはない、「おかしい」という感情はとても主観的なものだと思う。

返信
はぴたん より
おかしいことはないだろうか、ありがとう。
頭の中で「こうあるべきだ」って主張する声が聞こえて
変な風に言われるかもしれないと思ったんですよね。
家族を悪く言ってはいけないという規範に自分自身が
縛られている気がします。
posted by はぴたん at 18:55| Comment(2) | 毒親 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

父の死について1(発覚)

とあるブログを読んでいて、父親が亡くなった時のことを
思い出しました。
せっかくなので、書いておこうと思います。
私の生物学上の父親は、2015年の3月に末期のガンで
この世を去りました。
正式な死因は知りません。姉か母にでも問い合わせ
すれば分かるかもしれませんが、今のところ確認する
つもりはありません。
私も含めて家族が彼の末期のガンを患っていると知った
のは今年の2月頃です。
ある日突然父から「全身が痛くて病院に入院している」と
母に連絡があったそうです。
彼は2007年頃からずっと単身赴任のような状況で、
東京の家族と別々に暮らしていました。
1年の中で「家」に帰ってくるのは正月の時くらい。
正月も毎年というわけではなく、「忙しい」などと理由を
付けてなかなか帰ってきませんでした。
そして突然の連絡。
母はあわてて会社の休みをとり入院先の病院に行きました。
そこで末期のガンであるということを聞かされたそうです。
病状が悪すぎて東京に入院先を移すことは難しいだろう
ということと多分もう長くないので、緩和ケアの転院先を
探せと言われたそうです。
入院を知らされてから家族の行動は早かったです。
特に姉は。すぐに休みを取れない母の代わりに
父親を見るための休暇を取りました。
すぐに父親の病棟に常駐し、転院先を探し始めました。
そこで判明したのは父親自身は自分が治療の必要な
ガンであることを昨年の7月から知っていたということでした。
私はこの時点で半分父を見限りました。
(もう半分はとっくになかった)
なんて自分勝手な人なんだろうと。
昨年の時点で治療していればここまで悪くならなかったのに、
ろくに治療もせずに、最後の最後に痛みに耐えきれなくなって
家族に連絡するって(悪い意味で)ひどいと思いました。
当時の医者の聞き取りによると、積極的な治療は
したくなかったんだそうです。
家族に連絡しないという選択をしたなら、最後の最後まで耐えて
欲しかったと私としては思います。
ええ、痛かったでしょうよ、不安だったでしょうよ。
でもね、突然そんなことを聞かされた家族はもっとびっくりするし、
不安になります。
同じ治療をしないという結果だったとしても、昨年の時点で
分かっていれば家族だって心の準備ができたはずだと思います。
私は何年も前から「父親との関係」を清算しようと、自発的に父親に
会いに行ったり、カウンセリングを受けていたりしました。
父親がたとえば認知症やその他の理由で、彼らしさを喪失しても
自分が後悔したくないと思ったからです。
父親がいなくなることを想定して、ここ数年ほどは気が向いた時に
積極的に父親と関わるようにしていました。
それでも「3ヶ月保つか保たないか」という突然の連絡には
動揺しました。
そして自分は積極的に父親の死に関わらないと決めました。
彼が(本当に残念ながら)どうしようもない奴だということに
気づいたからです。
姉にも母にも「私は基本的に何もしない」と宣言しました。
依頼されたら出来る範囲で行動するけれども、基本は
姉や母に任せると。
私はずっと父親に「父親であるように」期待していました。
でも今回のことでそれは誤りであったこと、
つまり期待するだけ無駄な存在であったと
その時認識できたのでした。
今まで期待していた父親像というのはあくまで
「イメージ画像」であって、実際の本人にそれを
求めること自体が無駄なことだったんだと分かりました。
当時私が思いついた比喩は「ミッキーマウスには中の人が
いるけれども、私は今まで中の人などいないと信じていた」
というものでした。
よく分からない比喩ですが、それで膨らんでいた風船が
しぼむみたいにしてしゅるしゅると私の父親に対する希望の
念が消え去りました。
それもこれも父親が緩慢な自殺をするという選択をしたおかげです。
さて、入院した父親は1週間以上意識不明の譫妄状態になっていました。
自分がどこにいるか、どういう状態か分からず暴れたそうです。
病院側は仕方なく彼を拘束しました。
そこへ姉が来て、譫妄状態の父親に話しかけたりすることで、
やっと彼は自分が入院していることを自覚するようになりました。
譫妄状態はある程度落ち着いたそうですが、死ぬまでずっと
しばしば発生したそうです。
伝聞の形で書くのは私はその頃全くお見舞いに行かなかったからです。
入院して2週間後くらいにやっと私は入院先に顔を出しました。
私が父親に会いに行ったのは2ヶ月弱の間に4回。
(うち1回は葬式のため)
お見舞いに行って感じたのは父の変わりようと、姉と母の異様な
テンションでした。
彼はろくに髭も剃れず、髪の毛もばさばさで、ぱっと見は知らない
おじいちゃんのように見えました。
今回の一件で父に対しての考えを改められたのはこの見た目による
印象が大きく影響しているように思います。
そして家族に対しての強い違和感。
母は一応配偶者だからまあいいとして(よくないんですが)
姉の力の入れようにはものすごく変な感じがしました。
だって向こうはがんの発覚後7ヶ月も放置していた人ですよ。
そんな人に今更そんな休職したり、ホテルに住み込んで献身的に
介護する意味がよく分かりませんでした。
長くなりました。
記事を分けることにします。
posted by はぴたん at 18:53| Comment(0) | 毒親 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

[認知]硬直的なルール

『子どもを生きればおとなになれる』クラウディア・ブラックのAC本の実践。
前回の記事はこちら。
今日のテーマは硬直的なルール。
私の実家で言うと「良いと言えない場合には沈黙せよ」というものが代表的です。
言及する=悪い事を指摘するという風に思い込んでいるからです。

その影響で私は以下のような特徴を持ちました。
やめてと言えない(Noを言えない)
体調不良でも我慢してしまう
失敗を言い出せない
あらあら困った状態です。
やめてと言えないのは特に大きな問題なのでそれについて考えてみる。
制止する言葉はそれ自体が否定的なニュアンスを含んでいるので言いにくい。
しかもやめてと言ってやめてもらった経験が少ないので、更に言っても意味がないと思っている。

具体的に言うと父親が不機嫌な時に「不機嫌になられると私も気分が悪くなる」というような
ことを言ったら最後のような雰囲気があったので、父には直接言ったことがありません。
他の家族同士で言ったことはあったんですけどね。
あの時そういうことを言っていれば何か違ったかもしれないとたまに思うのですが、
きっとそういうことじゃないんだろうと思います。
本当に些細なことで機嫌悪くなったんですから。

私が父にテレビの音量下げてと言っただけで家を出てしまったくらい。
それで不機嫌になって家を出て行かれたらこちらは何も言えません。
今になって、あれは過剰反応だったと解るんですが、当時(大学生だった)私には
「自分が悪い」としか思えませんでした。
これが「父親の不機嫌は父親自身の問題だ」と解るまでには何年もかかりました。
posted by はぴたん at 18:39| Comment(0) | 毒親 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする